生きるために、人工呼吸器や痰の吸引など「医療的ケア」が欠かせない子どもたちがいます。全国に推計約2万人いるとされる医療的ケア児たち。医学の進歩によって救われる命が増える一方、その命を育んでいく支援の在り方が問われています。求められるのは、家族を孤立させないサポートと理解。長崎県で進む支援の現場から考えます。 ■自分を責める母 長崎県内に住むMさん一家。 現在小学4年生のM君は、1歳半の時、悪性の脳腫瘍のひとつである「髄芽腫」と診断され摘出手術を受けました。術後は寝たきりの状態に。気管切開手術を行い、人工呼吸器を装着して生活することになりました。M君の母親は、当時をこう振り返ります。 M君の母親: 「普通に産んであげられなかったと自分を責め続けて…。とにかく死なないでほしいと願う毎日でした」 ■1日100回の「吸引」 「医療的ケア児」となったM君。 吸引や経管栄養、体位変換、清拭、排泄などのケアで命をつなぐ日々が始まりました。吸引は多い日で1日100回に及びます。経済的なやりくり、今後の仕事、きょうだいの生活…。先が見通せない中、不安と疲労と緊張が、家族を追い込んでいきました。 M君の母親: 「医療的ケアは一瞬のミスが命取りになります。緊張感と向き合う日々で、当初は気が休まる時間はありませんでした」 ■ゴールデンハー症候群のN君 3歳のN君は、「ゴールデンハー症候群」という先天性の病気を抱えて産まれてきました。頭蓋顔面発達の障害、眼・耳・脊椎の奇形を伴う病気です。さらにN君は心疾患と難聴も抱えており、酸素吸入も日常的に必要です。N君と生きていくために、母親はこう願っていました。 N君の母親: 「N君を保育所に入れて、私も復職したい。でも、どうしたらいいのかわからなかった」 ■N君の入園が実現「つなぐ」のサポート 2021年9月、「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律(医療的ケア児支援法)」が施行。 法律の施行を受け、長崎県は2022年8月、長崎県医療的ケア児支援センター「つなぐ」を設立しました。県内の18歳未満の医療的ケア児は197人(令和4年3月「長崎県医療的ケア児等実態調査結果報告書」より)。
コメント 10件
長男は妊娠17週の時のエコーで生きることが100%できない疾患を抱えているとわかりました。 人口中絶という形をとることになり、自分を責め続ける日々でした。 「お腹の中で異常を教えてくれるなんてとっても親孝行な子だね」と言ってくださった方が1人だけいました。 その言葉は当時素直に受け止めることはできませんでした。どんな姿であれ生まれてきてほしかったと思っていましたが、今はその言葉がどれだけ重みのある言葉かよく分かります。
これ、終末期の延命措置と本質的には近い問いだよね。 「命を救う」ことと「どう生きるか、どう支えるか」は別の問題で、後者のほうがずっと重い。 救えるから救う、その先にどれだけの覚悟と負担があるか。 医療現場だけじゃなく、社会全体でちゃんと考えるべきテーマなんだと思う。
記事とはズレますが… 地域の普通学校へ通わす って何なんだろう?と思うことがあります。 我が子の小学校に全盲の子が入学してきて、親御さんが「地域の普通の学校に希望したから」とのこと。 低学年の時は気付かないかもしれないけれど、年齢を重ねていくと友達が放課後遊ぶ約束してるのが聞こえたり、昼休み外で走り回ってるのを感じたり。。。それは本人にとって普通なのか? 運動会でもその子に周りが気を遣ってる感じ。その状態は普通なのだろうか?親御さんは満足???でも周りの生徒さんのところは果たして… その子に合った場所でその子に合った支援を受けたり、全盲ならその子に合った遊びをしてもらったり読み書きを教えてもらったりする方が今後の人生にプラスになるのではないのかな?と考えさせられる事がある。 我が家にも発達障害持ちの子が居るんでね…
医学の進歩には、良い面と悪い面の両方があるのでしょう。 命が助かる事は良い事と考えられていますが、一方では苦しみを長引かせているだけの場面も往々にしてあるのでは?と思う事もあります。ALS患者さんが安楽死を希望して嘱託殺人を問われている事件もありますし、抗がん剤治療で確かに生存期間は延びているが副作用を考えると苦しい時間を延ばしているだけな気もします。 また、子供に限らず高齢者でも医療的ケアが必要な患者が増え続けていけば、医療費だけでなく介護者自体も不足してくる事が避けられません。命は大切とのキレイ事だけではダメで、ある程度の線引きをしないと共倒れになってしまう時代になりつつあると感じます。
ご両親は日々休みもなく我が子には対応されているので、学校に通えたり、一時的に預けられるのは、心も身体も休まると思います。 自分の近くにも同様のお子さんをお持ちの方がいらっしゃいますが、頭が下がる思いです。 どれだけ毎日大変か、自分なら出来ない気がしてなりません。 育てているご両親は立派だと思います。 色んなケアをご両親含め行政が手を差し伸べるのはとても有り難く感じます。
選択できる自由があった方がいい。 この前の80代のお母さんが50代の息子さんを殺めた事件も、7歳くらいの24時間介護が必要な娘さんに手を掛けたお母さんの事件も、安楽死の制度があればお母さんたちは犯罪者にならなくて済んだ。 そんな事件が沢山ある。 命は大切だからこそ、どのように終えるか自分や家族が決定できたほうがいい。 悲しい結末を迎える人を増やさないためにも。
当事者の方を取材して記事を書くことも大切なことだとは思います。 しかし、メディアとして報道するならば、現在医療的ケア児に対する公的サービスにどれくらいの予算がかかっているのか、当事者の方が望むような環境を整備するにはさらにどれくらいの予算が必要なのか、果たしてそれが実現可能か、客観的な検証が必要なのではないでしょうか? 医療的ケア児の問題以外にも、この国には予算がなく切り捨てざるを得ない部分が沢山あります。 日本という沈んでいく船の中で何を選び何を犠牲にするのか、ヒューマニズムから脱却して取捨選択していなければ、国家ごと共倒れになってしまうと思います。
体も自分で動かせない、話せない子供が、小学生の子供と同じクラスにいます。校外学習、地域学習といった行事にも、一応、参加していますが、その子は特に自分の意思があるわけでもなく、養護の先生に車椅子を押されて、ただ、クラスの子供たちの後ろについていっているだけです。それを見て、このような障害がある子供を普通の小学校に入れるのは、親のエゴでしかないな、と強く感じます。子供達は、そういう子もいるのだ、と認識はしますが、それ以上でもそれ以下でもなく、特にその子とコミュニケーションがとれるわけでもないので、ただ、そこに存在するだけ、という感じです。マンツーマンで養護の先生をつけたところで、授業から何かその子が学べるわけでもなく、学校に行くことに、何か意味があるのだろうか、と思ってしまいます。。。
サポートはほしいが、ただそれがどこまで可能かはそれぞれの事情次第だろうな 親が年をとっていくと、その子の面倒を誰が見てくれるのかという心配もある 自分が弱っていけば、自分の面倒だって見てほしいくらいだろうし 痴呆症が入ってしまうと、事態はさらに悲惨な状態だ 核家族の厳しい現実が待っている 戦後核家族化が進んだわけだが、家からの束縛から自由になるといった宣伝だったと思うが、果たしてそれが幸せだったのかどうなのか お互いに困った時に助け合うって、いくらご近所さんがいい人であっても、家族のようにはいかない
医療技術の進歩によって、今までなら諦めたケースすら無理やり延命できるようになったが、本当に良いことなのだろうか 運良く支援に繋がったとしても、苦難は当人が亡くなるその日まで続く ダウン症などの話が特に有名だが、昔は長くとも30代で亡くなっていた人たちが今や60代まで生きるのが当たり前 今までは親が生きている間にどうにかけりをつけることが出来ていたのに、知的障害+介護の問題という二重苦が増えているという 普通の人すら生きていくのがますます大変になっていく時代において、誰が彼らを助けてくれるのでしょうね
引用: https://news.yahoo.co.jp/articles/7d53fc5881b136449e5f9f15a0bb91f26a9121e4
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