戦後80年、107歳の元抑留者が語る「非戦の願い」。富山県南砺市井波に暮らす山田秀三さんは、旧ソ連によって捕虜となり、モンゴルでの過酷な強制労働を生き抜いた。「戦争はいかんこと。平和でいかないと」という言葉には、歴史の重みがある。 南砺市井波の自宅で静かに暮らす山田秀三さん(107)は、全国強制抑留者協会の会長を務める。終戦直前の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州へ侵攻。当時27歳だった山田さんは、ソ連軍の捕虜となり、過酷な環境のもとで労働を強いられた。 「1万3000人ほどいたと聞いていたが、うちに帰れるというので9月に移動が始まった。貨車に乗ってうちに帰れると思っていたが、それがとんでもないところへ行った」 貨車での移動中、逃げようとした日本人兵士たちが目の前で銃殺される場面を目撃した。 「ハルビンまで行く間にうちに帰れないことがわかったものだから、3人若い兵隊が捕まった。3人後ろに向けられて銃殺された。『これは逃げたら大変なんだ』。このことがあったことは知ってほしい。」 貨車内では食料が与えられず、気温は氷点下を下回る劣悪な環境だった。モンゴルの草原に到着すると、水がなく毎朝川まで歩いて氷を取りに行く日々が始まった。 「食料はほんの少し、コーリャンやラクダの腸を入れたものだった。水がないものだから、氷を取りに行った。毛布を首に巻いて5カ月、毎日そんなことをしていた」 翌年5月からは公共施設建設のため、氷で鉄板のように固まった地面の掘削作業に従事。その後、1947年11月に日本へ帰国するまで、ウランバートル市内の工場でレンガ造りを強いられた。 厚生労働省の推計によると、抑留者の数はおよそ57万5000人に上る。モンゴルでは寒さと栄養失調によりおよそ2000人が命を落としたとみられている。富山県からは約3100人が旧ソ連軍に連行され、約600人が亡くなったとされる。 107歳となった今、山田さんの記憶は断片的になっているが、家族に繰り返し伝えていることがある。それは、武器をつくってはいけない、平和への願いだ。 「戦争をやっている。あれはいかんこと。平和でいかないと。人を殺してまで国をとっている。戦車は何のためにつくるのか。物を壊す、人を殺す。飛行機で上から爆弾を落とす。一体何をやっているんだ。そういうことはいかんこと。お互いに平和を考えていかないといけない」 過ちは二度と繰り返されてはならないという切なる願いは、風化させることなく後世に伝えていく必要がある。
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祖父が戦争中、戦闘機の銃座担当でした。 あまり戦争の話はしてくれませんでしたが、終戦間近は東南アジアの洞窟で1カ月くらい過ごしたと言ってました。 食べ物が無かったのでネズミやミミズ、食べれる草を食べて飢えを凌いだと言ってました。 祖父が生き残っていなければ、自分も産まれて無かったんだなぁとか思いつつ、今ある人生を悔いなく生きていきたいと思います。
祖父が戦時中中国大陸に駐屯し、オートバイ兵としてサイドカーを運転していた。 終戦によりシベリアに抑留され、生きてゆくために必死でロシア語を覚えたと言い、小さなボロボロのノートを見せてくれた。 食料が貧困で、森林の開墾の際は松くい虫みたいな芋虫をよく食べたと言っていた。 衝撃だったのは夜中隣の日本兵が死ぬと分かるんだと言う、何故かと聞くと、死んで体温が低下すると南京虫がザーと音を立ててこっちのベッドに向かってくるんだと言っていた。 戦争中は中国人とはとても仲良く共存していて、お互い食べ物や物を交換したり共に食事したりしていたが戦後が最悪だったと言っていた。 もっと色んな話を聞いておくべきだったと後悔している。
私の祖父は子供3人を残して出征しシベリアで亡くなりました。祖母は子供たちを抱き抱えながら満洲から引き揚げましたが、途中で末っ子の叔父が亡くなってしまいました。母によると日本に着いた頃には真っ黒だった髪が真っ白になり、毎晩お風呂場で乳を出しながら泣いていたそうです。 数年前に母が外務省にシベリアでの祖父の記録が残っていないか問い合わせたところ、祖父の所属した団や行軍記録、医師が書いたと思われる最期の日々のカルテが送られて来ました。 祖父がどんな気持ちで亡くなっていったかを想像すると胸が締め付けられますし、祖父母が必死に繋いでくれた生命を大切に生きたいと思いました。そして、80年経った今でも一兵隊の記録を保管している日本は、やはり素晴らしい国だと思いました。
曾祖父ちゃんの同級生はことごとく玉砕したところへ送られてほぼ生きていない。 数少ない生きて帰ってきた友人に、シベリア抑留されていた人がいた。 奥さんにもう一度会いたい一心で生き残って帰ってきたが、ようやく帰ってきた時には、奥さんは再婚して子供がいたそうだ。 曾祖父ちゃんの友人も、ほどなくして良い方と出会ってまた結婚した。とても幸せそうだったそうだ。 でも、あまりにもかわいそうだと、曾祖父ちゃんは嘆いていた。 その方曰く。 とにかく食べられるものは何でもかんでも食べた。 食べない者から弱って死んでいったそう。 元気がないなと思ったら、次の日にはもう動かなくなっている。 子供にも、嫌なものは無理に食べなくても良いけれど、嫌いなものでも噛まずに飲み込めるようにはできるように育てている。 平和なうちはどうとでもなるけれど、戦時中は好き嫌いは生死にかかわる。
「極寒の地」と聞くと生き地獄と思うが、現地の人はそこで普通に暮らし一生を過ごしたりする。日本軍の捕虜になった米兵が食事にゴボウを出されて「食事は木の根を食べさせられる虐待を受けた」と証言もしてる 捕虜になった人達には同情するが、人々が戦争でない時に意思疎通をしてお互いの違いを認め合う機会があるべき
17年前に旅立った父も、抑留経験者だった。ただ本人からそのことを直接聞くことは無かった。 歳の離れた姉経由から聞いた話では、最初の年は、何も無くて苦労したそうだが、2年目以降は、抑留先がそこまで厳しい環境ではなかったのか、冬季以外は耕作等が出来た分餓えずに済んだらしい。 ただ姉もそこまでしか知らず、抑留先がどこだったのか、そこで何をさせられたのか、ずっとその場所にいたのか、一切語ってない。 大勢が抑留先で命を落とした中、自分が生きて帰れたことに引け目を感じていたのかも。
戦後80年を経過したが、その間、日本が戦争に巻き込まれなかったのは 幸運だった。人類の歴史上、戦争が長く起こらなかった時期はない。いずれまた、好むと好まぬにかかわらず、戦いはおこるだろう。 自然界では、それぞれの種の保存・維持のために、戦いは起こる。 今の、平和な時代ができるだけ長く続くことを祈るだけだ。
この人の証言と同じだ。 自分が中学生の頃(80年代)岩手県出身の父親からロシアへ戦争に行って帰らなかった親戚が居たと聞かされた。 その人は父方のお爺ちゃんの弟さんでしたが勉強もスポーツも成績が良かった人で学校では人気者。自分へその人と同じ名前を付けてもらったのは上記が理由だと聞かされました。 その人は戦後最後の捕虜を乗せる船で帰ると手紙が故郷に届きましたが、帰りませんでした。 その数日後…中学生だった自分は不思議な現実のような夢を見ました。それも帰らなかったその人その者になってた夢で、一度目が覚めてからもまた夢の続きを見るとゆう考えられない夢で現実を体験したかのような夢でした。 夢の内容には婚約した相手との場面から見ましたが長くなるので割愛します。 長文になるので続きは返信欄へ書きます。
上官の命令に従う、国民の命を守る、どちらも軍人としての本分だ。 しかし、両者が相反する究極の事態になった時どうするか? 前者を重く見て行動したのが、(帝国陸軍の)満州駐留軍。 後者を見て行動したのが内モンゴル駐留軍。 シベリア抑留者のほとんどは、前者所属。 根本中将は、戦後、金門島で獅子奮迅、台湾独立に大きく貢献した。 次の日銀券には、日本の独立と国民の命を守った軍人を登場させるべき。 選らばれしその代表は、東郷元帥、根本中将、樋口中将、、、。
故祖父は明治45年生まれ(1912年)生まれで生存だと113歳、故祖母は生存だと107歳です。私は51歳ですが小さなころから戦争の話を聞いて育ちました。実際に経験した人の話を聞くと、本当に考えさせられる事ばかりで次の世代の平和と真剣に向き合わないといけないと感じます。
引用: https://news.yahoo.co.jp/articles/dc87f59a1ede4bd92b659a6325eda0770efb1eba
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